ウィトゲンシュタイン

P37
論理哲学論考について
「この書物は思考に対して、いやむしろ思考の表現に対して限界を引こうとする。こう言い換えたのは、もし思考に対して限界を引くのだとすれば、このためには我々がこの限界の両側を思考できねばならなくなる(従って思考不可能なことも思考できねばならなくなる)からである。
従って限界は言語の中でのみ引くことができる。そして限界の彼岸にあることは全くの無意識であろう」


P68
(1)人間の言語は極大言語である
(2)通常「論理」と呼ばれているものは、言語の極大性条件であり、人間言語はこの「論理」を持つが故に極大言語なのである
(3)言語の極大性条件を言語によって語ることはできない
(4)極大言語は極大性条件としての論理的性質を示すことにより、世界の論理的性質を映している
※極大言語:語ることが可能な全てのことを語りうる言語
※極大性条件:ある言語を極大言語たらしめる構造的性質


P84
論理はもっぱら使うべきであり、それについて語るべきものではない、ということから、論理が語りえないということは決して導かれない。「論考」のウィトゲンシュタインはこの点で致命的な飛躍を行っている


P87
論理進学とは論理と言語の限界を論証的に示すことにより、超越的存在を間接的に意味する営みである
「哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけなければならない」(論考)


P98
論理空間とは全ての可能な思考からなる宇宙であり、全ての思考と存在の可能性を尽くすものである。この論理空間という観点から考えるなら、一つ一つの命題はもはや独立した存在でも、一個の象でもなく、巨大な思考空間を支える格子の中の一つの格子点にすぎない。


P117
対象化―命名という基本的な論理操作には、つねに何かを「これ」や「このように」として「私」たる話者に結びつける作用が内在しているのではないか。とすれな論理の最も根本的なところに、常に「私」の作用が介在していることになる。対象化なしにいかなる論理操作もないから、論理と「私」は不可分であり、論理によって支えられている言語は「私」と不可分だということになる。

P143
「世界の外」とは言語によって限界づけられた世界の限界の彼方、すなわち我々の思考の彼方、語りうることの彼方、言い換えるなら「語りえず、思考し得ない何物か」に他ならない。それが「神」である。


P162
言語的主体とは言語を用い、様々なことを意味する主体であり、「意味する私」・「語る私」である。
倫理的主体とは清世界を生き、その意志と行為が善悪という価値を帯びる主体であり、「意味ある世界を生きる私」である。


P164
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」


P170
あらかじめ与えられた自然的世界に、善悪や意味は存在しない。人間が世界と生に意味を見出し、単に生きるのではなく自らの生世界を生きる時、すべては一変する。その際に善悪の出現、すなわち生世界を生きる人間とその行為が善悪という意味を帯びるという現象である。


P205
論考は言語と論理について、言語とは世界の論理像であり、論理とはそうした言語が可能となるための条件である、という根本的見解を提示した


P215
言語的独我論
1.「私」は比類のない特権的性質を排他的に持っている(他の存在はそれを持っていない)
2.この特権的性質は言葉で記述できず、「私」自身に対して示されるだけで、他に対しては示すことも語ることもできない


P216
本来の独我論が主張する独我性とは、いかなる経験事実にも依存することなく、「私」が「私」であり、世界が世界である限りにおいて常に成立し、しかもそれが成立しないことは考えられないような、必然的性質なのである。
「私」は「現在」の体験においてこの独我性を感じるからこそ、真の意味で存在するといえる唯一の主体なのである。


P246
言語ゲーム的転換の本質は「内容主義的意味概念」から「機能主義的意味概念」への転換にある。
内容主義的意味概念:文の意味とはそれが述べている内容である
機能主義的意味概念:文の意味とは文が我々の全生活の中で演じている役割である


P254
言語ゲーム」とは我々の生活に繰り返し表れる活動のパターンである。それは人生全体の形としての「生活の形(レーベンス・フォルム)」を構成する要素である


P269
計算主義とは言葉の意味や理解とは我々が心の中で行う作用である、と考える立場なのである。したがって計算主義を放棄するとは、言葉の意味や理解は心の中で起こるいかなる出来事でもないと考えることなのである。


P286
「規則に従う」
有限の例による訓練の後、我々が単純な概念を無際限に「同様に」とか「自然に」と呼ぶ仕方で適用する能力であり、そうした言語ゲームである。(原言語ゲーム


P296
「規則に従う」や「自然数」といった表現が指し示すこの人間の嶋は、我々の言語と思考の語りえぬ土台、しかも可能な唯一の土台である。
それは自然によって与えられたものでなく、ある意味で人間が「造った」存在としての制度なのである。とはいえそれは税制や教育制度のような人間が取り決めたことではない。「規則に従う」や「自然数」は人間にとって、選択の対象ではなく、そこから全てを始めるべき固定点だからである。


P324
古い「痛み」概念を支えたのは「記号としての言語」という概念である。「痛み」とは自己の直接体験の名/記号であり、子供は「痛み」がどの体験を指すのかを知ったなら、「痛み」の概念を獲得し、「痛み」とは何かを知ることになる
新しい「痛み」概念は、感覚の名ではなく、ある複雑な劇の題名である。言語とは自然的な現象の人間的延長である。


P326
言語を習得するとは単に言葉の使い方を覚えることではなく、こうした劇を数多く体験し、マスターし、それを通じてより幅広い感情・認識・態度を自ら「知って」ゆくこと、それらを自ら生きてゆくことなのである。それは我々の生の様々な型を体得する過程であり、人間という存在になる過程そのものである。


P352
ウィトゲンシュタインは言語(言語ゲーム)の根底にあるのは規則ではなく「数を数える」とか「同じことを続ける」といった、それ以上は分解も分析もできない原初的な実戦であることを見出した

P354
「硬化理論」
あらゆる規則の期限が経験命題である。かつで経験命題であったものが、いったん硬化して規則に転化されるや、それは不動の基準という新しい役割を言語ゲームの中に獲得するのであり、この役割こそ規則の規則性であり、論理の論理性なのである。


P370
「規則に従う」という実践を出発点とする新論理では全てが逆転する。論理の源泉としてまず存在するのはそれぞれの人間による具体的な生活の場での「数を数える」といった実践と、そこにおいて人々の反応と判断がおおむね一致しているという事実である。これが論理の所与であり原点なのである。そして繰り返し一致し、人々が確実とみなす判断が固定され、「規則」という地位を与えられ言語ゲームにおける不可侵の基準という役割を担ってゆくのである
※旧論理において論理は論理命題の集合として表された。


P397
確実性には私的確実性と公的確実性がある。
私的確実性
「私はここに手があるのを知っている」
私という一個人と事態との認知的関係
公的確実性
「私は地球が私の生まれる以前から存在しているのを知っている」
権威と信頼に媒介された共同的・社会的な認知的関係


P408
人間的な意味で何物かの概念を持つとは、それの名の使用に主うずくするのみならず、それについてそれとして語りうることなのである。それまで前反省的な言語運用能力しか持たなかった存在がはじめて「私は知っている」という知の言明を行う時、その言明において言語と「私」が同時に生まれる。「私は知っている」という知の言明は、言語と「私」の等根源なのである