芸術と脳科学の対話 〜 バルテュス+セミール・ゼキ

P8
バルテュス「(私は)芸術家ではありませんね、むしろ職人であると自分では思っています。
わたしの営みは、制作することに、かつて存在したが今ではもう誰にも分からないものを再び作り出すことにあります。わたしは自分を表現しようとしているのではなく、世界を表現しようとしているのです。」


P9
バルテュス「視覚はわたしたちを本当に原初的な何かへと送り返してくれるのです。」


P10
バルテュス「(形に執着するのは)事物が何を意味しているのか聞き取るため、事物の意味に達するためです。」


P15
バルテュス「わたしの絵は祈りのようなものです、わたしは信心深いですから、絵画とは一種の祈りなのです。」


P20
バルテュス「わたしは何かを発見しようとしているのですが……たいていの場合、途中で断念してしまいます。自分が見たかったもの、発見したかったものが得られないからです。ある瞬間に自分の行為のイメージを描き出しても、少し後で確認のために引き返してみると、そこには何も無いのです。」


P22
バルテュス「抽象芸術は芸術の終焉です。」


P23
バルテュス「絵画には限界があります。最も大きな過ちとは、絵では実現できないもののために絵画を利用しようとすることです。」


P27
セミール「科学者は最終的には大脳生理学を通して芸術作品を説明することができるに違いないでしょう。
脳は自らが受けとる常に変化し続ける情報を通して、対象や表面の本質的で変わることのない特性をとらえようとしているということです。芸術家の仕事は、実にこの戦略の延長にあるものです。」


P40
バルテュス「(芸術は単に人間を幸福にする以上のより大きな機能を有しているはずだと、あなたはおっしゃるわけですね?)
そうです。芸術は精神に対して有益であり、善のために役立つものであるに違いありません。」


P52
バルテュス「子供は全く異なった仕方で世界を見て、事物を発見し、そして同時に事物を破壊することもできるのです。」


P58
バルテュス「真の画家は職人、熟練工でなくてはなりません。そして巨匠の職人は天才にとても近い人のことだとおもいます。なぜなら、天才はどんどん逃げ去っていくものですから。職人というのはまさに、自分が作るものがきちんと作られているかどうか気を配っている人間のことです。」


P63
バルテュス「何かを制作しようという気になることは、それを作る理由を発見することでもあります。今日わたしたちは、新しい世界、すべてが機械によって作られている世界にいます。しかし実際のところ、あなたはそこにいて、何かを見、それが何かを理解しようとしているのです。画家であるというのはそのようなことなのです。脳に関する研究を行なうのも同様のことではないでしょうか。」


P64
セミール「脳は絶え間無く受けとる本質的ではない情報をすべて排除し、普遍の特性についての認識を得るために本質的なことだけを記憶に留めておくことで、世界の認識へといたるのです。脳が対象や事物の外観を、どのような条件でそれを見ても同定できるのは、この働きによってなのです。わたしにとって芸術とは、ある意味で子の本質的なものの探究、という脳の活動の延長にあるものです。」


P107
バルテュス「絵画ですべてを表現することはできません。そんなことは絵画の目的ではないのです。」


P134
バルテュス「数世紀の間、わたしたちは退屈することなく同じことを繰り返すことができましたが、今ではすべてのことに退屈してしまうのです!」


P145
バルテュス「あらゆる発達は死に至るのです。究極の発達、それは死なのです。」


P155
セミール「視覚脳はこの知(目が教えてくれる素材感、対象と接触した場合に引き起こされる感覚)を習得することができます。わたしはこの生物学的定義を芸術にも押し広げ、芸術、絵画も同様にして生まれるのだといいたいのです。それは世界に対する認識を得るための一つの手段なのです。」


P161
バルテュス「(芸術家はどの程度まで時代の流れや社会の変動に影響をうけるか?)十六世紀の混乱の時期に描かれた絵画を見ても、その種の影響はまったく見受けられません。その時代の画家たちにはどうでも良いことだったのです。彼らは影響を受けてはいませんでした。」


P168
バルテュス「わたしには自分の時代を映し出そうとなどという欲求は少しもありません。現代はあまりに醜く、ひどく馬鹿げたものです。わたしはこの時代に属していません。それを拒否しているのです。」