神話と意味 〜 レヴィ=ストロース

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私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です


P15
神話の物語はきまぐれで無意味で不条理です。とにかく見たところはそうです。にも関わらず神話の物語は、世界的に反復して現れるように思われます。ある地点の人が頭の中でこしらえ上げた『奇想天外』の作り話ならば、一つしかないのが当たり前―つまり、まったく別の場所に同じ作り話が見出されるのはおかしいはずです。私の問題は、この外見上の無秩序の背後に、ある種の秩序があるのではないかと探ってみること、ただそれだけでした。


P16
人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。


P24
神話が人間に与える重要なものがあります。自分が宇宙を理解できるという幻想、宇宙を理解しているという幻想です。


P27
進歩は相違を通してのみなされてきました。現在私たちを脅かしているものは、オーヴァーコミュニケーションとでも呼びうるものでしょう。つまり世界のある一点にいて、世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知り得るようになる傾向です。ある文化が真に個性的であり、何かを産み出すためには、その文化とその構成員とが事故の独自性に確信を抱き、更にある程度までは、他の文化に対して優越感さえ抱かねばなりません。(略)私たちはいま、単なる消費者になり、世界のどの地点のどの文化から得られるどんなものでも消化できるけれども、独自性をすっかり失なってしまうのではないかという展望に脅かされています。


P27
地球上いたるところ、ただ一つの文化、一つの文明だけになる時代を私たちはいまや容易に想像することができます。でも私は実際にそうなるとは信じません。対立する傾向――一方は均質化へ、他方は新たな個別化へ、という傾向がつねに作用するからです。文明が均一になればなるほど、分離思想とする内的な傾向がはっきりしてきます。また、あるレヴェルで得られるものが、ただちに他のレヴェルで失われます。(略)人類がほんとになんらかの内的多様性なしに生きうるとは思えないのです。


P31
論理的観点からは、ガンギエイのような動物と、この神話が解き明かそうと試みている種類の問題とのあいだには類似性があるのです。この物語は科学的観点からは真実ではありません。しかし私たちはこの神話がいま述べた性質をもっていることは理解できるようになりました。それは、科学の世界にサイバネティックスやコンピューターが出現し、二項操作なるものを私たちに理解させてくれるようになったからです。二項操作は、ずいぶん異なった形ではあるけれども、すでに神話的な思考によって物や動物を使って行なわれていたのでした。ですから、神話と科学のあいだには、ほんとうは断絶などありません。科学的思考が現段階に達してはじめて、私たちはこの神話に何がこめられているのかを理解できるようになったのです。


P62
小説や新聞記事を読むように、一行一行、左から右へと読もうとしたのでは、神話は理解ができないと気づかねばなりません。神話は一つの全体的まとまりとして把握しなければならないのです。また神話の基本的な意味は、ひとつづきに連なるできごとによって表わされているのではなくて、いわば〃できごとの束〃によって表わされていること、しかもそれらのできごとは物語の別々の時期に起こったりもすることをはっきりきせる必要があります。したがって神話は、多かれ少なかれ、オーケストラの総譜と同じような読み方をしなければなりません。つまり一段一段ではなく、頁全体を把握することが必要です。頁の上の第一段に書かれていることが、それより下の第一一段、第三段などに書かれていることの一部分だと考えてはじめて意味をもちうるのだ、ということを理解しなければなりません。つまり、左から右へ読むだけではなくて、同時に垂直に、上から下にも読まねばならないのです。各頁が一つのまとまりであることを理解する必要があります。段を重ねて書いてあるオーケストラの総譜のように神話を扱ってはじめて、それを一つのまとまりとして理解でき、神話の意味を引き出すことができます。


P68
私たちが音楽を聞くとき、結局のところそれは、はじめから終わりまでつづき、時間のなかに展開してゆく何かを聞いているのです。交響曲を聞いてごらんなさい。交響曲にははじめとまんなかと終わりがあります。しかし、それにもかかわらず、私は各瞬間に、前に聞いたものといま聞いたものをまとめ合わせ、音楽の全体性を意識する状態を維持しています。もしそれができないとすれば、交響曲はまったく理解できませんし、そこから音楽の喜びなどは少しも得られないでしょう。またたとえば「主題と変奏」という音楽形式を考えてみても、最初に聞いた主題(テーマ)を心にとどめつつ変奏のそれぞれを聞くことによって、はじめてその曲を鑑賞することができるのです。また変奏のそれぞれが独自の趣きをもつのは、みなさんが無意識にそれを、先立つ変奏に重ねてみるからです。


P69
バッハの時代に形を整えたフーガ形式は、ある種の神話の進み方にそっくりです。一方のグループが他方から逃げ出そうとする様子は遁走曲(フーガ)そのものです。交唱が物語を通じて続き、ついには両グループがほとんど一つに混ざり合います。この二原理の統合によって、葛藤の最終的解決がもたらされるのです。そして統合という神話での解決の構造は音楽において和音が解決し曲を締めくくるのとよく似ています。そして、このフーガ形式のような音楽の形式は、音楽が本当に作り出したのではなく、実は無意識のうちに神話の構造から借りたものなのです。


P73
言語では音素の組み合わせが語に、語の組み合わせが文になるという三つのはっきりしたレベルがあるのに対し、音楽では音素としての個々の音があり、語に相当するレベルがなく、直接に文に相当するフレーズ(楽句)に移ります。神話には音素はなく、最も下位の単位は語です。つまり、これらの三つを比較すると、音楽には語に相当するものがなく、神話には音素に相当するものがなく、どちらの場合もレベルが一つずつ欠けていることになります。このように音楽も神話もともに言語から発するものでありながら、それぞれが別々の方向に分かれて生長しているのだということが分かります。また、音楽は音の面を強調しますが、それがもともと言語に根ざしたものであること、それに対して神話は意味の面を強調しますが、これもまた言語に根ざしたものであるということも明らかになります。