プラトンとアリストテレスの違い

プラトンは理想主義者であり、アリストテレスは現実主義者である、とよく言われます。プラトンイデアという感覚世界から離在するものを実在と考え、感覚的事物を実在と見なさなかったのに対して、アリストテレスは感覚的事物を実在と考え、感覚世界から離在しているイデアは感覚的事物の生成変化を説明できないから無用であると考えた。
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-03-24

アリストテレスの四原因

質料因
・「それは何からできあがっているか」と問われたときの「何」にあたるもので、「素材」のこと。
・「ヒュレー」と呼ばれる。


形相因
・「それは一体何であるか」と問われたときの「何」にあたるもので、ものの「本質」のこと。


起動因
・「それは何によって生み出されたのか」と問われたときの「何」にあたるもので、家を作る大工や職人などのこと。


目的因
・「それは何を目指して生み出されたのか」と問われたときの「何」にあたるもので、鋏の場合には「切るため」という用途のこと。

ディオティマの説〜「饗宴」プラトンより

愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。

これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。

愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。



以下http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19より

すべての人は、或る年齢に達すると、肉体的にも精神的にも妊娠し生むことを欲します。生むことは、醜いものの中ではできず、美しいものの中でなければできません。美しいものの中での出産・分娩を目指すのです。

人間という死すべきものは、身体的な出産により、かつての自分と同じような別の新しいものを後に残していくという仕方で、不死なるものに与ります。他方、魂の場面で身ごもっている人は、美しく高貴で素質のよい魂を相手に知や徳を生み出そうとし、この相手に対して、徳に関する話などをして教育にあたります。

クロード・ドビュッシー

クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日)はフランスの作曲家である。長音階短音階以外の旋法の使用、機能和声にとらわれない自由な和声法などを行った。
ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。


邯鄲の夢枕

唐の玄宗の開元年間のことである。
 

呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、み
すぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あく
せくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を
廬生といった。
 

やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端
に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生
が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清
河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、
トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出で
ては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
 

ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。
そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いく
ばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政
を行い、賢相のほまれを高くした。
 

位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕え
られた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によっ
てであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
 

「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。
百姓をしておりさえすれば、
それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、
何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。
そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。
あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
 

廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも
果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺された
のに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
 

数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして
中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそ
れぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極
めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、
しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相
ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。
しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。
 

欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍ら
には呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していた
が、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。
 

ああ、夢だったのか!」
 

呂翁はその彼に笑って言った、
 

「人生のことは、みんなそんなものさ。」
 

廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
 

「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。
これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。
よくわかりました。」
 

呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。
 
 
以上は、唐の沈既済の小説「枕中記」のあらすじである。同じような
説話の簡単なものは、すでに六朝時代の干宝の「搜神記」のなかにも見
られる。

「枕中記」より後のものには唐の李公佐の小説「南柯太守伝」、明の
湯顕祖の戯曲「南柯記」が同じ構想のものである。
 

この「枕中記」の説話から、栄枯盛衰の極めてはかないことをたとえ
て「邯鄲の夢」とか「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉が生まれた。
また「邯鄲の枕」とも「邯鄲夢の枕」とも言う。
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