ハイデガー

ハイデガー入門〜細川亮一】
P23
アリストテレス存在論の基本テーゼは「存在者は多様に語られる、しかし一との関係で(一へ向けて、プロス・ヘン)」
ハイデガーはその「存在の多様な意義の一性」を時間に求めた

P38
存在と時間」の狙いは「存在は時間から理解される」というテーゼを証明すること

P39
「永続性」とは時間の中に無限に存在し続けること。「永遠性」は時間を超えているから時間の中にあるわけではない。

P42
現存在はわれわれ人間という存在者を指す。現存在はそこにおいて存在が開示されている存在者、存在を理解している存在者である。

P57
「存在とは何か」という存在への問いは、「存在者とは何か」という存在者への問いとは次元を異にするがゆえに、答え方も異なる

P62
「存在は存在者を存在者として規定するもの、存在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhim)である」

P75
「意味とは先持、先視および先概念によって構造付けられた企投のWoraufhinであり、そこから或るものが或ものとして理解される企投のWoraufhinである」

存在は存在者の意味として存在者と区別される。同様に存在の意味は存在と次元を異にする。
「存在者−存在−存在の意味(時間)」
プラトン「表れ−イデア(真の姿)−善のイデア

P76
存在とは「理解の視がそれへと向かい、そこから存在者を理解する視点」である

P78
存在を投影面(時間という投影面)に投影し、存在はそこに映し出された投影像(時間から理解された存在)として理解される。(時間は「存在の意味)

P87
存在と時間」は道具的な存在者(用在者)、物的な存在者(物在者)、現存在としての存在者を区別する

P90
プロス・ヘンの例
食品を健康食品として語ることは、健康へと視を向け、それを視点としてその視点から食品を健康的なものとして語ることである。

Woraufhinとしての意味はプロス・ヘンである。

P105
現存在が明るくされているとすれば、それを明るくする光を更に求めることができるだろう。現存在の明るみを照らす光は時間性(テンポラリテート)に求められる

P118
現存在の分析論は「根源的で本来的な心理(本来的な状態性としての不安、本来的な心理としての先駆的決意性)が現存材の存在の理解を保証する」というテーゼに従って展開される。
現存在の存在を解明し、現存在の存在意味を時間性とする。(不安という本来的な情態性が現存材の存在を気遣いとして開示する)

存在理解を可能にする時間性(テンポラリート)に基づいて存在一般の理解に光をあてる(可能にするのは本来的な心理としての先駆的決意性である)

伝統的な存在論は「現在から理解された存在」だが、『存在と時間』は「将来から理解された存在」を提示する

P135
時間性とは「既在しつつ現在化する将来」であり、現存在の存在(気遣い)を可能にする(P151に詳細な解説)

P139
woraufhimとしての世界とは、「それから存在者が用在者(道具)として理解されるworaufhim」である。
「現存在が現存在としてそれへ向けて超越するそれ(woraufhim)をわれわれは世界と名づける。そして今や超越を世界内存在として規定する」

P148
アリストテレスは生きることをキーネーシス(運動)ではなく、エネルゲイア(現実態)として捉える。
生きることは死に向かって一歩一歩近づき、死によって終わる運動ではない。

P152
先駆的決意性は現存在の本来的なあり方であり、現存在の根源的な経験である。先駆的決意性は「本来的な死に至っている存在」であり、「存在と時間」は「世界内存在はその死より高い存在可能の法廷を持っているのか」と語っている

P156
形而上学には存在論-神学としての形而上学の二重性という問題がある。(ハイデガーはこの二重性を存在論で統一しようとした)

P163
「哲学は普遍的な現象学存在論であり、現存在の解釈学から出発する。現存在の解釈学は実存の分析論として、すべての哲学的に問うことの導きの糸の端をそこからすべての哲学的に問うことが発し、そこへと打ち返すところに結び付けているのである」
存在と時間」は範例的存在者を神ではなく、現存在に求める

P181
形而上学は概念把握することに対して、存在者を存在者としてかつ全体として取り戻すために、存在者を超えて問うことである。」

P192
ハイデガー形而上学の定式は「存在者としての存在者への問い」(存在論)と「全体としての存在者への問い」(神学)という形而上学の二重性を表現している。

P201
「神が死んだ」とは「人間が存在者のただ中に見棄てられていること」、つまり「神の死によって影を投げかけられた全体としての存在者の中に人間が見棄てられていることである」

P223
「私の思想の根本思想とはまさに次の事である。存在あるいは存在の露呈性は人間を必要とし、逆に人間は存在の露呈性に立つ限りでのみ人間である」


ハイデガーの思想 〜 木田元

P8
ウィトゲンシュタイン「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを十分に理解することができる。人間には言語の限界に突進しようという衝動がある。例えば何かが存在するという驚きを考えてみるが良い。この驚きは問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」

P80
「存在とは何か」という問いこそ西洋哲学を貫く根本の問いである

P83
存在企投とは現存在がいわば存在という視点を投射し、そこに身をおくことだと考えれば良い。つまり存在とは現存在によって投射され、設定される一つの視点のようなものであり、現存在が自ら設定したその視点に身を置くとき、その視界に現れてくるすべてのものが存在者として見えてくるということである。


ハイデガー存在と時間』を読む | 山竹伸二の心理学サイト】
・「存在と時間」の分かりやすい解説サイト
 http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/2.html