文章表現 四百字からのレッスン 〜 梅田卓夫

作品世界と「私」の関係を意識する
①文章で述べられている世界・・・作品世界
②その世界を言葉で作り出している私・・・作者
文章を書く時は、私の扱いに留意する

観察メモ
1.目に見えること
2.見えたような気がすること
3.頭の中で考えたこと

メモは作文の中心作業
・文章を書くことは考えることの連続で成立する。その考えを立ち消えないうちに書き留めるのがメモ
・メモは常に未確定の「ことば」と「発想」が生成している現場。メモは思考の先端であり、文章生成の現場である
・メモの作業
 1.思いつくことを書き留める
 2.メモを増やす
 3.何が書けるか、何が書きたいかが見えてくる
 4.拾うメモ、捨てるメモを選り分ける
 5.さらにメモを補う
 6.実際に文章で使う語句やレトリックを確定し、「内容」の断片を作る
 7.叙述の順序・段落・章立てを考える

青い花〜ノヴァーリス

P31
光と色と影がたくみに配分されるとはじめて、それまで隠されていた見事な様相が目に見える世界に顕われ、そこで新たな開眼にいたるものであるとすれば、当時はどこでもそれと同じような配分と効果が認められた。(中略)夜が光に触れ、光が夜に触れてこなごなに飛び散ると、いっそう微妙な影と色彩があたりに漂うが、いったいこの薄明の中の散策を厭う人がいるであろうか。

小説の方法 〜 伊藤整

我々は神の代わりに無を考えることによって安定しているのである。考える力がないのではない。考える必要を感じないでバランスを保っているに過ぎない。無の絶対は神の絶対と同じように強いものである。


P43
小説はあまり現実の諸条件とかかわりが深いために芸術の範囲に留まることが難しいのではないか(広津和郎の疑問)


P57
アルベエル・チボオデは文字と書物を持たぬ公衆の前で朗誦された叙事詩、物語が印刷されて室の中で読まれるようになった時に小説が成立したと言っている。


P59
小説という芸術では演者と鑑賞者が顔を合わせないということである。演者即ち作者は密室で一人でそれを作り演じ、読者は密室で一人でそれを味わう。その条件において初めて、他人に言うのをはばかるような内密のもの、罪深いもの、扇情的なもの、告白などがはけ口を見出して書かれるようになり、また読む方も他人の秘密な独り言を聞き、他人の隠したがる行為や考えを知るという戦慄を味わうようになった。


P60
抒情詩は、音楽を伴い、韻律の枠の中に自己を閉じ込めて、ひそかに内奥の情感を吐き出したのであろう。それはしかし、歌謡として他人の前で歌われる作法であったために、その情感の全姿態をあらわにすることができなかった。事実の経緯、そのあらわな姿は、詩においては必ず隠れて姿を現さないのであった。その部分を音楽が分け持って、抽象的に表現したのであろう。そして結末の詠嘆のみが音楽の雲の中にまぎれて鋭く立ち昇った。それゆえ、詩は音楽と韻律を身に纏い、あいまいな美しさに隠れ、詠嘆のみによって、嘆き、歌垣、愛撫し、訴える自己を表白することができた。


P61
ボオドレエル時代から、あるいはブレイクの時代から、抒情詩は公衆の前で歌われるという約束が空虚であることが反省された。詩は音楽に依拠せず、言葉自体の中に音楽を持とうとするようになった。その時から詩もまた一人の人間が一人の室で読むものとなった。そういうものとしての思念のまた表現の細心さと大胆さ、告白の迫真性と人間の悪と罪の昇華の道が詩の中に開けたのであろう。それは方法としてのサンボリズムを生んだ。


P64
私は小説の核心が作者その人のひそやかな告白であること、それはもと叙事詩という公衆の間で行われた朗誦から出たという風俗描写を手段としながらも、その本体は、秘密の部屋で秘密に書き記された自己の存在の罪と呻きとから発する真実さと美しさへの訴えの囁く声であることを信ずる。


P65
個我の声が切実なものであり、自己にあまりにも即したものであるときに、それは一人の密室で読まれるにしても社会に公表されるものであるから、羞と不都合とから作者を守るために仮想を、虚構を必要とする。


P77
芸術はエゴと環境の調和、照応の美である。文学は、言葉自体が生活の功利的用具であるから、論理を根本秩序としている。文学における芸術はこの論理の秩序の中に人間の完成の純粋な結晶を味わうことだ。論理の秩序をのがれることは、音楽が音の秩序を逃れることのように不可能である。作者が自分の名において自分のエゴをこの秩序に生かそうとするとき、偽装が必要となる。他者を借りなければならぬ。ヨーロッパの作家にとっての造型とは、少なくとも近代以降においては、なかばこの実証的論理性の顕われであり、なかば作者のエゴを他者の仮面の中に封じ込める操作である。


P96〜97
ロシアの文学者と日本文学者の違い
ロシア文学者は知識階級者の社会に席を持っていた
キリスト教によって倫理観を形成していた
・守るべき個我の権威があり、捨て去ることのできない現世があった
・日本の文学者は小さな商業ジャーナリズムに支えられていただけ
・逃亡奴隷の自由生活の実践者
・俗世と対立せず、俗世における自分の席を放棄(P168)
・限定された文壇という環境の条件とのみ格闘(P168)


P144
物語が作者の名を冠するようになって以来、作品は作者の優越せんとするエゴの充足的表白として役立ってきたのである。
(P146・ホオマアの頃は語り手が非存在という建前になっており、語り手のエゴは原則として禁じられている)


P144
音や色や線そのものには功利的な機能が直接にはない。
言葉は功利的な人間関係の表示を役目としている。言葉をその功利性において、人間関係の規定物としての機能において使おうとするのが散文なのだ。
(P184にも同じような記述あり)


P156
詩はそれを外から縛っていた音楽の形なる韻律を、内部に移入することで音楽から独立した。劇は散文に移ったときに、時代の精神と合致しえる実証的な芸術となった。だが、詩を失った劇は韻律による観念の、個我の声の高揚を失った。


P195
生命は常に秩序を越えようとする。人種、民族、死、性、美醜などという肉体それ自体の条件も越えようとする。そして生命は散文芸術の中では、その衝動の具体化のために、美、あるいは善への願望、あるいは悪や悲哀などをその棲家とする。音楽において音を、絵画において色を棲家とするように。生命は抵抗物を見出すときに現われるもののようだ。作為が本質的に芸術に必要なのは、実人生の場で味わうものを、より高く、十分に生命が反響する構成を設ける操作だからである。架空の構成はその反響の純粋表出のために必要だ。現世からの逃亡も、革命的行動もその操作となりえる。現実の悲哀や痛苦、満たされぬ欲望や善などはそれ自体の設定が生命の仮定された無限の充足を表現することで文芸では積極的な働きをする。否定的である限り、それは生命の無限の解放を予定することで、芸術の操作となる。


P196
それ以前の芸術の秩序から言えば不調和なるものが存在するとき、芸術家は何らかの形でそれを心象内で秩序付けなければならぬ。現世的秩序の論理が普通先にそれを消化する。しかしその段階では人間にとって不安定な外のものに過ぎない。そして美の、芸術の秩序はそれが単なる現われではなく、その生命にとっての意味、生命を限りなく味わうひとつのきっかけとなるような形でそれを吸収しようとする。それは新しい感情、新しいメロディ、新しい色の定着を要求する。


P312
小説とは散文芸術を通して、与えられた環境と気質の中でもっともよくエゴを確立する方法と考えられる。


P325
ロシア・フォルマリストと呼ばれる理論家たちは、芸術の存在理由を異化作用に見出した。異化作用とは日常的に見慣れてもはや何の感銘も受けず、現に眼にしていながら、見ている自覚すらも起こらないような対象を、思いがけない視点から描いたり、全く違う文脈の中に置き換えたりして、対象がそれ自体として存在するフォームや、質量感を、あらわに、新たに知覚させることである。惰性化した知覚に衝撃を与え、自分と世界との関係を再認識させることだ、と言ってもいい。


(理解のために読んだほうが良さそうな本)
広津和郎「散文精神について」
チボオデ「小説の美学」

日本のエロティシズム 〜 百川敬仁

P15
おおきな緊張を要する自我の構造化の代償として累積する心的ストレスが、その構造の一時的解体によって解消されるカタルシス的な瞬間への予期こそ、人間の存在論的基礎をなす時間性の根源をなす


P19
(ドンファンなどが)次々と相手を探しもとめるのは、未知の領域がなくなり反復しか残されていない単なる肉体的快楽では満足できないからである。あらたな肉体をもとめる際限ない遍歴は、むしろ肉体への不満を超えたもの-エロティシズム-への憧れを物語っている。


P24
エロティシズムとは個体の自我が他者の自我もろとも自我出現以前の泡立つ混沌へ回帰し、精神の構造を維持し続けることの緊張からどうにか逃れたいという、自我の象徴的な死への欲望にほかならず、そうした欲望の自覚は他社に対する支配と被支配の両方の関係が交錯する演技的な協働作業によって性的快感の頂点に近づいていく予感の時間の中で十全に、そして最高度に味わうことが可能になるからである。
→エロティシズムの問題に他者という概念が入り込んでくる


P26
拷問する快楽の本質はたんなる肉体の加虐にあるのではなく、それを介して精神を屈服させる、つまり他者の自我の構造を破壊する点にある。


P.55
認識の深化がもたらすものは<精神の王国>ではなく、すべてが見え透いたフィクションに堕する恐るべきニヒリズムの世界


P61
個体同士が深部であらかじめ情緒的に融合を遂げてしまっている<もののあわれ>社会のそれは、象徴的な死(自我構造の解体)を代償に孤独な自我同士が不可能な融合を夢見るところに生じる種類のエロティシズムとはおのずから別物でなければならないはずだ。

エロティシズム 〜 バタイユ

・エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。


・生殖は生の不連続性につながっている。だが他方で生殖は存在の連続性を惹き起こしもするのである。つまり生殖は密接に死と結びついている。


・生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。


・私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう


・決定的な行為は裸にすることだ。裸は閉じた状態に、つまり不連続な生の状態に、対立している。裸とは交流の状態なのだ。それは、自閉の状態を超えて、存在のありうべき連続性を追い求めるということなのだ。猥褻な印象を与える密やかな振る舞いによって、二つの肉体は連続性に開かれる。


・この連続性への開けこそエロティシズムの奥義であり、またエロティシズムだけがこの開けの深い意義をもたらす


・本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である


・侵犯は、何度繰り返されても、禁止に打ち勝つことはできないが、しかしあたかも禁止は、禁止が排除するものに栄光の呪詛を与える手段にすぎないかのようなのだ


・エロティシズムの内的体験は、その体験者が、禁止の侵犯へかりたてる欲望に対して、さらには禁止の根底をなす不安に対しても、多大な感受性を持つことを要求する。


・エロティシズムの意味である生の約束と、死の豪奢な面との結びつきを見抜くためには多大な力が必要だ。死がまた世界の青春でもあるということを、人類は一致して無視している。ほとばしりがなければ生は衰退してゆくのだが、唯一死だけがこのほとばしりを保障しているということを私たちは目隠しをして見まいとしている。


・もし本質的な禁止の中に、生き生きとした力の乱用としての自然、無化の狂騒としての自然に対する人間の拒絶を見るならば、私たちはもはや死と性活動の間に相違を設けることができなくなる。性活動ち死は、自然が、無数で尽きることのない存在たちとおこなう祝祭の強烈な瞬間にほかならない。すべての存在の特性である存続への要求に抗って自然がおこなう無際限の浪費という意味を性活動も死も持つのである。


・一過的な欲望や激しすぎる欲望は、「禁止」されなければならない。そうでないと、「労働」による生産力が落ちてしまう


・人間の社会とは、基本的にこの「労働」=「禁止」の世界である


・禁止は侵犯されるために存在している


・人間の欲望が向かう対象は、《禁止》されているのである。


・禁止は労働に対応し、労働は生産に対応している。労働の俗なる時間においては、社会は生活資源を蓄積し、消費は生産に必要な量に限定される。聖なる時間は祝祭に代表される。(中略)祝祭のさなかには、ふだん禁止されていることが許されるし、ときには強要されさえする。(中略)経済の視点から見ると、祝祭は、その度外れな浪費によって労働の時間に蓄積された生活資源を蕩尽するものである。そこには際立った対立があるのだ。


・恐怖と嘔吐感がもっと深く心を責めさいなんでいる宗教においては、万物を流転させる過剰さへの合意は、ときとしていっそう強烈である。無の感覚ほど圧倒的な力で人を横溢へ投げ込む感覚はない。だがそれでいて横溢はいささかも無化ではない。横溢は、恐怖に打ちのめされた態度を凌駕していくということなのだ。横溢は侵犯なのである。


・原初の人間たちの目には、動物が人間と異なっているとは映っていなかった。それどころか、禁止を守っていないがゆえに、まずはじめ動物の方が人間よりもっと神聖な、もっと神的な性格をもっていたとみなされていたのである。


・(生贄の話)暴力的な死のおかげで一個の存在の不連続性が破壊されてしまうのだ。後に残るもの、しのびよる静寂の中で参加者たちが不安げに感じるもの、それこそが存在の連続性である。生贄はそこへ戻されたのだ。


・人間というこの不連続な存在者は不連続性のなかで執拗に生き続けようとしている。だが死によって、少なくとも死を見つめることによって、不連続な存在者は連続性の体験へ引き戻されるのだ。


・一般に供犠の行為とは、生と死を合体させること、死に生のほとばしりを与えること、生に死の重々しさ、目まい、幅広さを与えることなのである。(中略)。逆にまた協議においては死は同時に生のしるしであり、無限定性への開けになっているのである。


・性交の最中の動物のカップルは、二つの不連続な存在が近寄って、瞬間的な連続性の流れにより一体化するという事態から成立しているのではない。厳密に言えば合体などないのだ。暴力の支配下にある二つの個体が、性的結合の秩序だった反射作用によって結びついて、危機の状態-両者それぞれ自己の外に存在している状態-を共有するということなのだ。たしかに雌雄二つの存在は同時に連続性へ開かれている。だが曖昧模糊とした意識の中では何も存続しない。危機のあとには、双方の存在の不連続性は元のままである。これは、最も強烈であると同時に最も無意味な危機なのだ。


・性器が充血すると、それまで生が立脚していた精神の平衡は崩れてしまう。激情が、突然、一個の存在を奪ってしまうのだ。


・肉体の運動に没入する者は、もはや人間ではなく、獣たちのように盲目的な暴力そのものになりきっている。


・贈与する当の者にとって、贈与は、自分の財産の消失である。贈与する者が贈与で利益を得ることもあるが、しかしこの者はまずはじめ贈与せねばならない。この者は、まずはじめ、多少とも全面的に、彼の贈与を得る集団全体にとって増加の意味を持つものを自分に対して放棄せねばならないのである。


・自分の姉妹を贈与する兄弟は、自分の近親の女との性的結合の価値を否定するというよりはむしろ、この女を他の男と結びつけ、また彼ら自身を他の女と結びつける結婚のより大きな価値を肯定しているのである。気前のよさを基底にした交換には、直接的な享楽よりももっと広汎で強烈な交流がある。より正確に言えば、祝祭性は、運動の導入を、自己閉塞への否定を前提にしているということだ。(中略)性の関係は、それ自体、交流であり運動である。


・我々の生は、全体としてみるならば、不安に陥るまで浪費を渇望している。不安がもはや耐えられなくなる限界まで渇望している。つまり、人間の生は本質において過剰なのである。生とは生の浪費のことなのだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くしてゆく。生は自分が創造したものを際限なく滅ぼす。生ある存在の多くはこの運動のなかで受動的である。そして極限において私たちは、私たちの生を危険にさらすものを決然と欲する。運よく力に恵まれたら、人間はたちどころに自分を消費し、危険に身をさらしたがるのだ

・エロティシズムの本質は汚すことだという意味で、美は第一に重要なのである。禁止を意味している人間性は、エロティシズムにおいて侵犯されるのだ。人間性は、侵犯され、冒涜され、汚されるのだ。美が大きければ大きいほど、汚す行為も深いものになってゆく。

時間は実在するか 〜 入不二基義

「時間は実在するか」(入不二基義 講談社現代新書 2002年)はイギリスの哲学者J・M・E・マクタガートが一九〇八年に書いた論文「時間の非実在性」を解説している。
マクタガートは時間を理解するしかたにはA系列とB系列の二種類があるとする。
そして、時間を考えるうえで本質的なのはA系列の方であるとする。しかし、マクタガートによればA系列はある矛盾を含んでいるので実在してはいないとされる。このことから、マクタガートは「時間は実在しない」と考えた。また、その証明もできたものと考えた。
マクタガートの「証明」には発表当時からさまざまな批判や言及が加えられている(入不二自身もマクタガートの「証明」には批判をもっている)。しかし、マクタガートの説は時間論を考えるうえでは基礎的なものとなっている。


マクタガートの時間論の大まかな流れ>
マクタガートの時間論の構成をステップ分けすると次のようになる。
ステップ1:時間のとらえ方にはA系列とB系列の二種類がある。
ステップ2:B系列だけでは時間をとらえるのに不十分である。
ステップ3:A系列だけが時間にとって本質的である。
ステップ4:しかしA系列は矛盾を抱えている。
ゴール:よって時間は実在しない。


<時間のA系列とB系列について>
A系列とは、現在を視点として過去・未来を眺めるという視点である。この場合、「現在」はどこかの時点に固定された不動のものではない。
それに対してB系列は、時間的な前後関係や順序関係によって成立する系列である。通常「○○は××より前」「××は○○より後」という表現で表される。この関係は二つ以上の出来事や時点に関してでなければ成り立たない。
そして、マクタガートはB系列だけでは「時間」の核心をとらえることはできない、とする。その理由をマクタガートは、
①「変化」が「時間」にとって本質的なもの
であり、
②B系列だけでは「変化」を説明できない
からだとする。
①の、「変化が時間にとって本質的なものだ」というのは、ものごとの「変化」がなければ時間が経過しないからである。②の結論がでるのは、B系列はあたかも数直線上に数値が「○○は××より大きい」「××は○○より小さい」という順序関係で並んでいるかのように出来事、時点を時間の順序で整列させているからである。その序列関係の系列は、そのままであり続けるしかないのであって、そこに「変化」が入り込む余地はない。
B系列はこのように固定的・永続的なものであり、「変化」を説明することはできない。


A系列の優位性>
マクタガートは「変化」を説明できるのはA系列だけであるとする。A系列についてマクタガートは次のように説明する。
ある出来事aは、いつまでも現在であり続けることは不可能である。出来事aは、いずれ過去になる。いいかえれば、aという出来事がまさに現在起こっているという特徴付けは、ある時に「真」であっても、いずれその後「偽」に変わってしまう。このような「過去ー現在ー未来」という特性によって出来事や時点をとらえるとき、その系列はA系列を形成する。たとえば「源義経の死」という歴史的な出来事も、これからおとずれる未来である状態から、まさに今生じている現在であるという状態を経て、もうすでに終わった過去であるという状態へと「変化」する。同一の出来事もB系列として眺めると不変であるのに対して、A系列としてみると「変化」するのがわかる。このようにA系列は時間の本質である「変化」をとらえることができる。マクタガート本人はこのことを「ものごとは時間の中にある限りA系列の中にある」と述べている。


A系列の矛盾>
さらにマクタガートはB系列はA系列に対してより根本的な時間把握であり、B系列はA系列に対して依存して初めて成り立つと考えている。
マクタガートは、B系列は「順序+時間」という仕方で構成されていると考える。この「時間」の部分がA系列である。マクタガートは「順序」の部分には「C系列」という呼称をつけた。つまりB系列=C系列+A系列というわけである。
マクタガートは方向性を持たない順序であるC系列こそが実在の姿であり、あとからそこに方向性を持った時間的な変化であるA系列が付け加えられることによって、ようやくふつうの意味での順序のB系列が成立するのだと考えた。
その上でマクタガートはA系列の矛盾を以下のように証明する。
1、出来事は、「過去である」「現在である」「未来である」という三つのA特性をすべて持たなくてはならない。
2、「過去である」「現在である」「未来である」という三つのA特性は「変化」を表すためには互いに排他的でなければならない。
3、A特性が出来事に適用されるならば、その出来事は互いに排他的な三つの特性をすべて持たなければならない。これは矛盾である。


「出来事は両立不可能な三つのA特性をすべて持っていなければならない」という点にマクタガートは矛盾をみる。これは、あるものが「赤色である」「青色である」「黄色である」という三つの特徴をすべて持っていなければならない事態に似ている。この三つの特徴は、A特性と同じように、互いに排他的である。両立不可能な三つの特徴をすべて持っていなければならないとしたら、それは矛盾した事態である。


マクタガートは自論に対して次のような反論を予想する。
両立不可能な特徴であっても「同時に」ではなく「契機的に」別々の「時」に帰属させられるのであれば、矛盾にはならないのではないか?


これに対してマクタガートは次のように再反論する。継起的に、ということには、B系列的な時間の観念(時間的順序関係)が入り込んでしまっている。しかし、B系列はA系列+C系列でできている。反論者はA系列を矛盾のないものとして証明するために、当のA系列を使ってしまっている。これは、悪循環になるので、間違いである。


よって、A系列は矛盾を含む。矛盾するものは存在し得ないので、A系列は存在し得ない。A系列は時間にとって本質的なものであった。したがって時間は存在し得ない。よって時間は非実在的なものであることが証明された。


[感想]
マクタガートの理論でわかりづらいのは、A系列B系列といった表現であるが、自分はこれを「内側から見た時間」「外側から見た時間」と考えればいいのではないかと思う。B系列というのは、歴史年表などのように、外側から時間を眺めた場合の系列であるように思う。ただ、マクタガートはこのような年表的な時間理解を、ただの記述の羅列だと考えて、「時間」とは認めないのだろう。
マクタガートは「時間」の本質を「変化」だと考えているから、年表のように固定されてしまったものは、「時間」だとは思わないということになる。
対して、A系列は、「内側から見られた時間」だということになる。私たちは宇宙の中に存在している。宇宙の外部にでることはない。したがって実際は私たちは宇宙の中の変化の系列に含み込まれているのであり、この変化の系列を内部から推し量って「時間」と名付けているのだといえる。時間を観察しようとするとき、観察者自体が時間の中に組み込まれていることになる。この観察者の認識視座は「現在」に固定されているから、「過去」や「未来」を観察することは実際にはできない。では、観察者は「現在」ならば十分に観察することができるのか?答えは、先ほど要約で見たように、「否」である。こうして、過去・現在・未来が実際には客観的な観察の対象にならないことから、時間というものは、実在ではなく、ほんとうは観察主体が生み出した幻想の構造なのだということが理解される。
もちろんこの宇宙の事象は観察者なしでも実在する。そして因果的契機で運動変化している。しかし、その運動変化に「時間」という幻想を覆いかぶせてみているのは人間の観察の働きにすぎない。すべての宇宙の事象は実相としては時間的構造のないC系列として存在している。観察という人間の主観の働き、より具体的にいえば精神の働きが時間構造を生み出しているのだといえる。
http://www.roppongi-shijinkai.net/20100515-1227.html

更に詳細は↓
http://math.artet.net/?cid=60986

ウィトゲンシュタイン

P37
論理哲学論考について
「この書物は思考に対して、いやむしろ思考の表現に対して限界を引こうとする。こう言い換えたのは、もし思考に対して限界を引くのだとすれば、このためには我々がこの限界の両側を思考できねばならなくなる(従って思考不可能なことも思考できねばならなくなる)からである。
従って限界は言語の中でのみ引くことができる。そして限界の彼岸にあることは全くの無意識であろう」


P68
(1)人間の言語は極大言語である
(2)通常「論理」と呼ばれているものは、言語の極大性条件であり、人間言語はこの「論理」を持つが故に極大言語なのである
(3)言語の極大性条件を言語によって語ることはできない
(4)極大言語は極大性条件としての論理的性質を示すことにより、世界の論理的性質を映している
※極大言語:語ることが可能な全てのことを語りうる言語
※極大性条件:ある言語を極大言語たらしめる構造的性質


P84
論理はもっぱら使うべきであり、それについて語るべきものではない、ということから、論理が語りえないということは決して導かれない。「論考」のウィトゲンシュタインはこの点で致命的な飛躍を行っている


P87
論理進学とは論理と言語の限界を論証的に示すことにより、超越的存在を間接的に意味する営みである
「哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけなければならない」(論考)


P98
論理空間とは全ての可能な思考からなる宇宙であり、全ての思考と存在の可能性を尽くすものである。この論理空間という観点から考えるなら、一つ一つの命題はもはや独立した存在でも、一個の象でもなく、巨大な思考空間を支える格子の中の一つの格子点にすぎない。


P117
対象化―命名という基本的な論理操作には、つねに何かを「これ」や「このように」として「私」たる話者に結びつける作用が内在しているのではないか。とすれな論理の最も根本的なところに、常に「私」の作用が介在していることになる。対象化なしにいかなる論理操作もないから、論理と「私」は不可分であり、論理によって支えられている言語は「私」と不可分だということになる。

P143
「世界の外」とは言語によって限界づけられた世界の限界の彼方、すなわち我々の思考の彼方、語りうることの彼方、言い換えるなら「語りえず、思考し得ない何物か」に他ならない。それが「神」である。


P162
言語的主体とは言語を用い、様々なことを意味する主体であり、「意味する私」・「語る私」である。
倫理的主体とは清世界を生き、その意志と行為が善悪という価値を帯びる主体であり、「意味ある世界を生きる私」である。


P164
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」


P170
あらかじめ与えられた自然的世界に、善悪や意味は存在しない。人間が世界と生に意味を見出し、単に生きるのではなく自らの生世界を生きる時、すべては一変する。その際に善悪の出現、すなわち生世界を生きる人間とその行為が善悪という意味を帯びるという現象である。


P205
論考は言語と論理について、言語とは世界の論理像であり、論理とはそうした言語が可能となるための条件である、という根本的見解を提示した


P215
言語的独我論
1.「私」は比類のない特権的性質を排他的に持っている(他の存在はそれを持っていない)
2.この特権的性質は言葉で記述できず、「私」自身に対して示されるだけで、他に対しては示すことも語ることもできない


P216
本来の独我論が主張する独我性とは、いかなる経験事実にも依存することなく、「私」が「私」であり、世界が世界である限りにおいて常に成立し、しかもそれが成立しないことは考えられないような、必然的性質なのである。
「私」は「現在」の体験においてこの独我性を感じるからこそ、真の意味で存在するといえる唯一の主体なのである。


P246
言語ゲーム的転換の本質は「内容主義的意味概念」から「機能主義的意味概念」への転換にある。
内容主義的意味概念:文の意味とはそれが述べている内容である
機能主義的意味概念:文の意味とは文が我々の全生活の中で演じている役割である


P254
言語ゲーム」とは我々の生活に繰り返し表れる活動のパターンである。それは人生全体の形としての「生活の形(レーベンス・フォルム)」を構成する要素である


P269
計算主義とは言葉の意味や理解とは我々が心の中で行う作用である、と考える立場なのである。したがって計算主義を放棄するとは、言葉の意味や理解は心の中で起こるいかなる出来事でもないと考えることなのである。


P286
「規則に従う」
有限の例による訓練の後、我々が単純な概念を無際限に「同様に」とか「自然に」と呼ぶ仕方で適用する能力であり、そうした言語ゲームである。(原言語ゲーム


P296
「規則に従う」や「自然数」といった表現が指し示すこの人間の嶋は、我々の言語と思考の語りえぬ土台、しかも可能な唯一の土台である。
それは自然によって与えられたものでなく、ある意味で人間が「造った」存在としての制度なのである。とはいえそれは税制や教育制度のような人間が取り決めたことではない。「規則に従う」や「自然数」は人間にとって、選択の対象ではなく、そこから全てを始めるべき固定点だからである。


P324
古い「痛み」概念を支えたのは「記号としての言語」という概念である。「痛み」とは自己の直接体験の名/記号であり、子供は「痛み」がどの体験を指すのかを知ったなら、「痛み」の概念を獲得し、「痛み」とは何かを知ることになる
新しい「痛み」概念は、感覚の名ではなく、ある複雑な劇の題名である。言語とは自然的な現象の人間的延長である。


P326
言語を習得するとは単に言葉の使い方を覚えることではなく、こうした劇を数多く体験し、マスターし、それを通じてより幅広い感情・認識・態度を自ら「知って」ゆくこと、それらを自ら生きてゆくことなのである。それは我々の生の様々な型を体得する過程であり、人間という存在になる過程そのものである。


P352
ウィトゲンシュタインは言語(言語ゲーム)の根底にあるのは規則ではなく「数を数える」とか「同じことを続ける」といった、それ以上は分解も分析もできない原初的な実戦であることを見出した

P354
「硬化理論」
あらゆる規則の期限が経験命題である。かつで経験命題であったものが、いったん硬化して規則に転化されるや、それは不動の基準という新しい役割を言語ゲームの中に獲得するのであり、この役割こそ規則の規則性であり、論理の論理性なのである。


P370
「規則に従う」という実践を出発点とする新論理では全てが逆転する。論理の源泉としてまず存在するのはそれぞれの人間による具体的な生活の場での「数を数える」といった実践と、そこにおいて人々の反応と判断がおおむね一致しているという事実である。これが論理の所与であり原点なのである。そして繰り返し一致し、人々が確実とみなす判断が固定され、「規則」という地位を与えられ言語ゲームにおける不可侵の基準という役割を担ってゆくのである
※旧論理において論理は論理命題の集合として表された。


P397
確実性には私的確実性と公的確実性がある。
私的確実性
「私はここに手があるのを知っている」
私という一個人と事態との認知的関係
公的確実性
「私は地球が私の生まれる以前から存在しているのを知っている」
権威と信頼に媒介された共同的・社会的な認知的関係


P408
人間的な意味で何物かの概念を持つとは、それの名の使用に主うずくするのみならず、それについてそれとして語りうることなのである。それまで前反省的な言語運用能力しか持たなかった存在がはじめて「私は知っている」という知の言明を行う時、その言明において言語と「私」が同時に生まれる。「私は知っている」という知の言明は、言語と「私」の等根源なのである