時間を哲学する 〜 中島義道

・過去中心主義から見た時間論
・同著者の「時間論」と内容はほぼ一緒


P44
夢を見ている「あいだ」はそれが夢か現実か判断できない。醒めた後に初めて決まるのです。


P45
認識とは不在のもの(<いま><ここ>にないもの)に対する態度


P85
過去は場所ではない―「過去というところ」とはどのようなところなのか。それが漠然とでも空間的な場所のようなものと考えているところに、すべての誤りの源泉がある


P106
認識論は至るところで<ウチ>と<ソト>という配分を実行しておりますが、これらは実は現在という知覚可能な世界<ソト>と過去という知覚不可能な世界<ウチ>という時間的な配分に由来する。しかるにこの時間的配分を現在の場面に移して空間的配分(身体の<ウチ>と<ソト>)として捉えなおすという誤りを犯している。


P117
想起とは「過去に知覚した」という直感を伴って、かつての体験を文章的に思い浮かべること


P158
現在と過去との区切りはあくまで言語的なものですから、逆に連続的な状態においては過去はいつまで経っても現出しない。

気温がゆっくり下がる状態をずっと観察している人でも、連続的な気温の状態を「暑い時」と「暑かった時」とに区分するという態度変容を行った後にはじめて「しかし今日は暑かったなあ」と語りだすのです。

物理的関係とはすべて連続関係ですが、現在と過去との関係は意味的=言語的関係なのですから、物理学的記述とはべつの区切りをいったんつけなければ過去形は使えないのです。


P172
未来はあらゆる意味で「ない」、完全な無なのです。


P176
未来について考えているように見えることは、実は未来についての考えではなく、未来に起こるだろうと<今>考えていること、つまり現在の心の状態にすぎないということです。