エロティシズム〜Fアルベローニ

・男女の違いを基にしたエロティシズムの考察
・風俗的な要素が高い。実践的でもある
・どことなく表面的な印象

P11
男のエロティシズムがより視覚的、生殖的であるのにたいして、女のそれはより触覚的、筋肉的、聴覚的である


P34
エロティシズムはすべてを無にすることでもなく、自分を失うことでもなく、果てしなく崩壊することでもない。それは継続と非継続の間のあいだの弁証法的発展である。(継続=女、非継続=男)


P153
フーコー「(ホモとは)一種の秘密結社に加わり、忌まわしい種族の一員になり、特権的ではあるが迫害も受ける人類の一区分に入るための方式」


P174
集団的エロティシズムの場でも私達は個性に惹かれ、新たな相手の独特な個性が好きになる。それぞれの個人は別であって、その差異が喜ばしいのだ。
もしこういった深い違いがわかならければ、周りの人間達はただのうごめく肉体の集団でしかなくなってしまう。目が輝いたり、口が笑いかけたりはしなくなる。すべてが区別のつかない、多数の人間の塊に化してしまう。


P187
犬はいつでも同じ刺激や同じ肉にいつでも反応する。人間はそうではない。同じ刺激はあるところまで行くと慣れを生む

 

ホーピー族

アリゾナ州北部に住むネイティブアメリカンでホーピー族と言う部族の話である。

彼らの言語体系のなかには過去・現在・未来に該当する言葉がないのだという。彼らにとっての世界は「開示されたもの」と「開示するもの」の二つの有り様しかない。

過去の事象と現在の事象は区別されずに「開示されたもの」と言う言い方でひとくくりにされる。未来に起こることと、目に見えない心のなかで起こることは、未分化の状態のままで「開示する(される)もの」と呼ばれる。


つまり彼らにとって、世界とはすでに時間を超越して「在る」もの、たとえていえばすでに「書かれてある本」のようなものなのかもしれない。

世界はすでに開かれて読まれた頁とこれから開かれて読まれる頁の二種類にわかれるが、本そのものはすでにあるのである。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/entrance/ikeda/index.htm

 

スコプツィ派(自己去勢の例2)

19世紀末東ヨーロッパで異端キリスト教スコプツィ派が流行。 鞭打ち苦行→去勢により天国に入れる。 男性信者は「地獄への鍵」のタマをとり、ついに鋏や斧でサオも切る。 女性信者は乳房、クリトリス、大陰唇を切除した。 切除は祭り状態の中で行われた。

(詳細はエロティシズム〜澁澤龍彦のP185)

 

キュベレー崇拝(自己去勢の例)

もっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。

同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。

女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。

一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテスと呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。


アタランテーとヒッポメネースは狩の途中、ゼウスの神域に入り、そこで交わったため神の怒りに触れライオンに変えられた。一説では、それはキュベレーの神域ともされ、二人は女神の車を牽くこととなったともされる。

wikipedia

 

エロティシズム〜澁澤龍彦

・エロティシズムに関して23のテーマに対する考察
澁澤龍彦の世界観に従い、実例が色々と紹介されている
・深くはないが、入門編やインデックスとしては価値があるのでは



P38
「愛の自然的条件」・・・顔の魅力とか肉体の美しさとか、声の質だとか、それらを含めた全体の印象のように、特定の対象の上に欲望を定着させるもの

P70
バタイユ「究極の連続性とは死に他ならず、死の魅惑がエロティシズムを支配している。エロティシズムとは死に向かう暴力であり、禁止に対する侵犯である」

P72
バタイユ「決定的な行動は裸にすることである。裸体とは、閉ざされた状態、つまり、非連続な生存の状態に対立するものだ。裸体は一種のコミュニケーションの状態であって、反省の彼方に、存在の可能な連続性の探求を啓示するのである。私達に猥褻感を与える、この秘密の通路から、肉体は連続性に向かって開かれる」

P107
E.シュトラウス「性的倒錯は、エロス的選択が本質的に価値的なもの、たとえば美によって規定されているような場合にのみ出現し得るのである。倒錯は肯定的な価値の反対の方向に向かう。したがってサディズムはつねに反省的行動であり、行動による価値の否定である。破壊、侮蔑、涜聖、要するに自己自身および相手を歪曲することが、倒錯による快楽の源泉である」

P227
裸になるということは単純化の理想を求めることであり、堕落した現在の生活を打ち破って、原初の楽園の理想を一挙に実現することを意味する

 

死とエロティシズム

バタイユ
「人間はただ死においてのみ一切の個別性を超えて大きな連続性の中に解き放たれる。私達は失われた連続性へのノスタルジーを持っており、エロティックな行為の絶頂において、わずかに死による等価物を手に入れることができるのであろう」

快楽主義の哲学〜澁澤龍彦

P23
快楽は客観的なものであり、幸福は主観的なものである


P25
快楽は瞬間的なものであり、幸福とは持続的なものである


P64
エピクロス「死は、わたしたちにとって何物でもない・・・というのは、善いものも悪いものも、すべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。したがって死がわたしたちにとって何物でもないことを正しく認識すれば、その認識は、この可死的な生をかえって楽しいものとしてくれる。というのはその認識が、この生に対して限りない時間をつけ加えるからではなく、不死へのむなしい願いを取り除くからだ」
「私たちが存在する限り死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはや私たちは存在しない」


P108
人間には強い自己保存の欲求、生きていたいという欲求があるわけですが、それよりも更に深いところで死への衝動がはたらいている


P110
愛し合う男女が、彼らを脅かす社会や他人から完全に背を向けて、自分達の世界に閉じこもり、セックスの恍惚の極限としての「小さな死」をそのまま美しく永遠化しようとする―これが情死の意味であります


P119
サドのセックス哲学「男女の性別も、年齢も、社会的身分も、血族関係も、すべて無差別に混淆されるばかりでなく、このように個人の肉体における性器の優位性すら、完全に否定されるのです」