実戦・日本語の作文技術 〜 本多勝一

■日本語の語順
1.述部が最後にくる
2.形容する詞句が先に来る
3.長い修飾語ほど先に
4.句を先に


■かかる言葉と受ける言葉は直結せよ
×美しい水車小屋の娘
○水車小屋の美しい娘

※形容詞は誤解が生じやすいから注意


■テンの二大原則
1.長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンをうつ
2.語順が逆になったときにテンをうつ


■テンの原則(実戦)

1.文の主題となる語の後に打つ
(1)叙述の主題となる語の後
(2)助詞のつかない主語の後


2.役割の同じ語句が並ぶ場合、その間に打つ
(1)重文の場合
(2)一つの文の中に、述語が2つ以上ある場合
(3)語句が2つ以上並ぶ場合(・でもよい)
(4)同格関係の語の間


3.叙述に関する限定や条件を表す語句にうつ
(1)限定や条件を表す前置き分の後
(2)限定や条件などをあらわす文を主文の間に間に挟む場合。はさんだ文の前と後
(3)時・場合・場所・方法などを現す語句が、文全体を限定する場合、その語句の後
(4)接続詞の後
(5)文の初めに用いる副詞の後
(6)感動詞・呼びかけ・応答などのことばの後、また間投詞の後
(7)語句を隔てて修飾する場合、または、並列したいくつもの語句を修飾する場合、修飾する語の後に打つことがある


4.文の成文を統治した場合
(1)主語が文の中間に置かれた場合、その前に打つ
(2)述語が文の中間に置かれた場合、その前に打つ


5.会話文・引用文などカギで囲んだ前後
(1)カギの前では必ず打つ
(2)カギを「と」で受けて、それが叙述のことばに直接続かない場合は、「と」の次に打つ


6.読み誤りや読みにくさを避けるために打つ
(1)読み誤りを避けようとする場合
(2)読みにくさを避けようとする場合


7.息の間や読みの間のところに打つ

はじめての認知心理学 〜 伊藤進

・行動心理学では心をブラックボックスとして扱い、刺激と反応だけを問題にした
認知心理学では情報処理モデルを作りながら、それを基に心のすがたを描き出す


■情報の図と地

・図と地は膨大な情報量を頭が処理する上での基本戦略。これにより膨大な量の情報が入っても混乱しない。
・図と地の分化とは情報が頭の中で主要な領域と副次的な領域に分かれることをいう。主要な領域を「図」、副次的な領域を「地」と呼ぶ


■心的資源の集中と配分

・心的資源(頭脳が情報を処理するのに使えるパワー:記憶力や思考力、知識など)が限られる中で、どの処理にどれだけの心的資源を割り当てるかが重要。
・「意識的処理」と「自動的処理」があり、作業が熟練していくと自動的処理で対処するようになり、心的資源の消費が少なくて済む


ボトムアップ処理とトップダウン処理

①ターゲットとなっている対象から得られる情報「ターゲット情報」
②ターゲットを空間的、時間的に取り囲んでいるもの「文脈情報」
③頭脳にあらかじめ蓄えられている情報「知識」
ボトムアップ処理:ターゲット情報そのものの特徴分析からスタートする
トップダウン処理:知識と文脈情報から対象についての予想や仮説を立てる
・現実ではトップダウン処理に偏ることが多い。(精神病棟や絵画鑑賞の例)


■記憶・生を支えるもの

・自分がどんな人間かという認識と、自分はずうっと同じ自分だという実感が合わさったもの、それがアイデンティティ。私たちの頭脳は自分という人間の姿をいつも記述し、説明している。


■記憶のしくみ

・感覚記憶:情報をとりあえずキープする機関。ただし一瞬のみ
・短期記憶:心理的生活に「時の連続性」を与えてくれるもの。記憶容量に限界、7項目前後。別名作業記憶。
・長期記憶:記憶容量は無限


■知識のさまざまな形態

・長期記憶に蓄えられている記憶には2つの形態がある。一つが「それは何か、どうなっているか」という知識(宣言的知識)。もう一つが「何かを実行する」ための知識(手続き的知識)
・知識携帯の種類には別の種類もある。エピソード記憶:自分に起こったことの記憶。意味記憶:巨大な百科事典、一般化された知識の集合体。
・記憶力には構造化の程度が大きく関係する。構造化するほど意味記憶に組み込まれやすく、格納量が増え、検索性が高まる。
スキーマ意味記憶の中にある情報のパッケージ。ここの情報を蓄えなくて良いので情報の節約になる。またスキーマで様々なことを推測できる。その一方で誤解にもつながりやすい。
・これを人間に限定したものが「ステレオタイプ
メタ認知:頭脳が自分自身の情報処理活動についてモニターする働きのこと。「自分の記憶力はどれくらいかなど」


■認知的不協和とその解消

・互いに矛盾する二つの情報が同時に存在し、不快な緊張状態にあることを「認知的不協和」と呼ぶ
・認知的不協和の解消のためには①情報内容を変更する、②矛盾をなんとか理由付けできる情報を付け足す、という2つのやり方がある
・自分の気持ちや考えと食い違う言動を取ると、認知的不協和が発生し、取った行動に合わせるように気持ちや考えが変わりやすい。ただしそういう言動を取る理由(報酬や暴力・圧力)がある場合はそうはならない



 

ハイデガー

ハイデガー入門〜細川亮一】
P23
アリストテレス存在論の基本テーゼは「存在者は多様に語られる、しかし一との関係で(一へ向けて、プロス・ヘン)」
ハイデガーはその「存在の多様な意義の一性」を時間に求めた

P38
存在と時間」の狙いは「存在は時間から理解される」というテーゼを証明すること

P39
「永続性」とは時間の中に無限に存在し続けること。「永遠性」は時間を超えているから時間の中にあるわけではない。

P42
現存在はわれわれ人間という存在者を指す。現存在はそこにおいて存在が開示されている存在者、存在を理解している存在者である。

P57
「存在とは何か」という存在への問いは、「存在者とは何か」という存在者への問いとは次元を異にするがゆえに、答え方も異なる

P62
「存在は存在者を存在者として規定するもの、存在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhim)である」

P75
「意味とは先持、先視および先概念によって構造付けられた企投のWoraufhinであり、そこから或るものが或ものとして理解される企投のWoraufhinである」

存在は存在者の意味として存在者と区別される。同様に存在の意味は存在と次元を異にする。
「存在者−存在−存在の意味(時間)」
プラトン「表れ−イデア(真の姿)−善のイデア

P76
存在とは「理解の視がそれへと向かい、そこから存在者を理解する視点」である

P78
存在を投影面(時間という投影面)に投影し、存在はそこに映し出された投影像(時間から理解された存在)として理解される。(時間は「存在の意味)

P87
存在と時間」は道具的な存在者(用在者)、物的な存在者(物在者)、現存在としての存在者を区別する

P90
プロス・ヘンの例
食品を健康食品として語ることは、健康へと視を向け、それを視点としてその視点から食品を健康的なものとして語ることである。

Woraufhinとしての意味はプロス・ヘンである。

P105
現存在が明るくされているとすれば、それを明るくする光を更に求めることができるだろう。現存在の明るみを照らす光は時間性(テンポラリテート)に求められる

P118
現存在の分析論は「根源的で本来的な心理(本来的な状態性としての不安、本来的な心理としての先駆的決意性)が現存材の存在の理解を保証する」というテーゼに従って展開される。
現存在の存在を解明し、現存在の存在意味を時間性とする。(不安という本来的な情態性が現存材の存在を気遣いとして開示する)

存在理解を可能にする時間性(テンポラリート)に基づいて存在一般の理解に光をあてる(可能にするのは本来的な心理としての先駆的決意性である)

伝統的な存在論は「現在から理解された存在」だが、『存在と時間』は「将来から理解された存在」を提示する

P135
時間性とは「既在しつつ現在化する将来」であり、現存在の存在(気遣い)を可能にする(P151に詳細な解説)

P139
woraufhimとしての世界とは、「それから存在者が用在者(道具)として理解されるworaufhim」である。
「現存在が現存在としてそれへ向けて超越するそれ(woraufhim)をわれわれは世界と名づける。そして今や超越を世界内存在として規定する」

P148
アリストテレスは生きることをキーネーシス(運動)ではなく、エネルゲイア(現実態)として捉える。
生きることは死に向かって一歩一歩近づき、死によって終わる運動ではない。

P152
先駆的決意性は現存在の本来的なあり方であり、現存在の根源的な経験である。先駆的決意性は「本来的な死に至っている存在」であり、「存在と時間」は「世界内存在はその死より高い存在可能の法廷を持っているのか」と語っている

P156
形而上学には存在論-神学としての形而上学の二重性という問題がある。(ハイデガーはこの二重性を存在論で統一しようとした)

P163
「哲学は普遍的な現象学存在論であり、現存在の解釈学から出発する。現存在の解釈学は実存の分析論として、すべての哲学的に問うことの導きの糸の端をそこからすべての哲学的に問うことが発し、そこへと打ち返すところに結び付けているのである」
存在と時間」は範例的存在者を神ではなく、現存在に求める

P181
形而上学は概念把握することに対して、存在者を存在者としてかつ全体として取り戻すために、存在者を超えて問うことである。」

P192
ハイデガー形而上学の定式は「存在者としての存在者への問い」(存在論)と「全体としての存在者への問い」(神学)という形而上学の二重性を表現している。

P201
「神が死んだ」とは「人間が存在者のただ中に見棄てられていること」、つまり「神の死によって影を投げかけられた全体としての存在者の中に人間が見棄てられていることである」

P223
「私の思想の根本思想とはまさに次の事である。存在あるいは存在の露呈性は人間を必要とし、逆に人間は存在の露呈性に立つ限りでのみ人間である」


ハイデガーの思想 〜 木田元

P8
ウィトゲンシュタイン「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを十分に理解することができる。人間には言語の限界に突進しようという衝動がある。例えば何かが存在するという驚きを考えてみるが良い。この驚きは問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」

P80
「存在とは何か」という問いこそ西洋哲学を貫く根本の問いである

P83
存在企投とは現存在がいわば存在という視点を投射し、そこに身をおくことだと考えれば良い。つまり存在とは現存在によって投射され、設定される一つの視点のようなものであり、現存在が自ら設定したその視点に身を置くとき、その視界に現れてくるすべてのものが存在者として見えてくるということである。


ハイデガー存在と時間』を読む | 山竹伸二の心理学サイト】
・「存在と時間」の分かりやすい解説サイト
 http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/2.html


 

無からの創造

時間も空間も物質もない「全くの無」から議論を始める現代の物理学者はライプニッツの問いを、「なぜ存在者があるのか、むしろ「無」があるのでなないか」と「無」を大文字にして読み替えたハイデッガーのほうに親近感をおぼえるかも知れない。なぜなら相対論的場の量子論を基礎として語られる「無からの創造」は、根拠律の適用不可能な偶然性の所産であって、創造主という絶対的な有を根拠とするというよりはむしろ「創造主なき創造」という一面をもっているからである。創造的であるのは、何らかの有ではなくて有無の対立を越えた真空なのである

http://nbsakurai.exblog.jp/3451308

時間論 〜 中島義道

・過去中心主義から見た時間論
・同著者の「時間を哲学する」のほうが分かりやすいが、内容はこちらのほうが深い


P30
過去という観念にはすでに現在という観念が含まれている。なぜなら、第一に過去とはそのとき現在であった時なのであり、第二にこの現在にとっての過去だからである。(中略)
「『今京都にいるんだ』と昨日彼は言った」という文章の意味を理解できる者、こうした存在者のみが時間を了解していると言える。過去に含まれる現在という構造が時間構造の原形であり、この構造を明晰にしていくこと、このことが「過去中心主義」である


P100
時間とは、知覚的に与えられているあり方(現在)において、そこに知覚的に与えられていないものを、まったく別のあり方(過去)として了解することである。


P118
想起とは知覚と対等の、しかも知覚とは根本的に異なる作用なのだ。知覚が現在の事象に直接向かうように、想起は過去の事象に直接向かう。知覚が現在の意味を原的に与えるように、早期は過去の意味を原的に与えるのである。


P160
自由とは私が実現した過去の特定の行為Hに対して責任を取りうるということであり、「そのとき私は自由であった」という言明が正当に成立するということである


P190
時間認識は徹底的に「想起」という作用を中心に成立し、「想起している時」が現在であり「想起の対象の時」が過去である。よって想起能力がないものは時間の認識能力もない。過去を形成する能力のないものは時間認識能力もない。

時間を哲学する 〜 中島義道

・過去中心主義から見た時間論
・同著者の「時間論」と内容はほぼ一緒


P44
夢を見ている「あいだ」はそれが夢か現実か判断できない。醒めた後に初めて決まるのです。


P45
認識とは不在のもの(<いま><ここ>にないもの)に対する態度


P85
過去は場所ではない―「過去というところ」とはどのようなところなのか。それが漠然とでも空間的な場所のようなものと考えているところに、すべての誤りの源泉がある


P106
認識論は至るところで<ウチ>と<ソト>という配分を実行しておりますが、これらは実は現在という知覚可能な世界<ソト>と過去という知覚不可能な世界<ウチ>という時間的な配分に由来する。しかるにこの時間的配分を現在の場面に移して空間的配分(身体の<ウチ>と<ソト>)として捉えなおすという誤りを犯している。


P117
想起とは「過去に知覚した」という直感を伴って、かつての体験を文章的に思い浮かべること


P158
現在と過去との区切りはあくまで言語的なものですから、逆に連続的な状態においては過去はいつまで経っても現出しない。

気温がゆっくり下がる状態をずっと観察している人でも、連続的な気温の状態を「暑い時」と「暑かった時」とに区分するという態度変容を行った後にはじめて「しかし今日は暑かったなあ」と語りだすのです。

物理的関係とはすべて連続関係ですが、現在と過去との関係は意味的=言語的関係なのですから、物理学的記述とはべつの区切りをいったんつけなければ過去形は使えないのです。


P172
未来はあらゆる意味で「ない」、完全な無なのです。


P176
未来について考えているように見えることは、実は未来についての考えではなく、未来に起こるだろうと<今>考えていること、つまり現在の心の状態にすぎないということです。